2003~2020年度の川崎医科大学衛生学の記録 ➡ その後はウェブ版「雲心月性」です。
川崎医科大学 学報 編集後記
2010年12月24日
本年度は,川崎学園40周年記念の年度で,全体としての記念講演会や祝賀会,また大学は単独での記念行事を実施いたしました。

さて,編集後記を記す役の私は,1972年の春に川崎医科大学附属高校に入学しました。

38年前です。

入学の4月に,新幹線はそれまでの東海道のみで新大阪終点だったのですが,山陽新幹線が岡山まで伸びました。当時愛川欣也氏のユーモラスなCMが印象深いものでしたが,二次面接で大阪駅から特急列車(「つばめ」だったかしら?)に乗って倉敷までやってきた時,岡山駅のホームで乗り換えを待つ間,やけに冷たい風に気持ちを震えさせたことを記憶しています。

入学については,寮に入る荷物もあったので,郷里の丹波・福知山から車でやってきました。当時は中国縦貫道のみで,福知山から現在の兵庫県加東市社町のICまで降りて,津山ICまで斜めに上がって,また,53号線を降りるのがいいのか,素直に,西脇から姫路へ抜けて2号線をひたすら西進すればいいのか,といった状況にありました。

5月の連休には,岡山から多分京都まで(当時は福知山線も接続も悪く,また時間も掛かっていたので,京都まで行って山陰本線で・・・現在も京都駅の山陰本線は31-34番ホーム(関空へ向かう「はるか」のホーム(30番ホーム)から30番台です)と,他の路線とは別番号なのですが,当時も「山陰1番,2番乗り場」ということで,新幹線からの陸橋を渡って,メインの改札口とは反対方向に階段を降りると,それだけで少し暗く冷たい印象があったものです)初めて新幹線に乗って,帰省したことを覚えています。

岡山にも高島屋も一番街もなく,倉敷駅前のバスセンターはトタン屋根の少しうらぶれた感じを抱かざるを得ないような(なんといっても,開学当時の職員名簿の大学住所は都窪郡庄村松島で,2年目から倉敷市に併合されて現在の地名になっています,また倉敷市自体も1967年に倉敷(かつ水島)・児島・玉島が合併して出来た都市で,今でもそうですが,この4つの主要地域に市街地は分散しており,その中でも大きかった倉敷であっても,40年近く前は小さな地方都市だったのですよね),記憶に残っているのは,高校時代に雨模様の日曜かに倉敷に遊びに出て,帰る当時の倉敷市営バス(今はなくなりましたが)の三田線(1時間に1本くらいでした)を待っている秋口に,トタン屋根にはじめる雨音がやけに気持ちをいらだたせていたなぁってことを思い出してしまいます。

当時は,附属高校に入学したことで,すべての将来が決められたレールのままに走らなければならなくなったという,焦燥とういうよりは諦念に近い思念に捉われていたというのが正直な処で,当時のオリジナル曲にも「脱線列車」という願望を唄った曲,さらには「涙雨」という平穏の流れのままに漂って行くんだっていう寂寥に浸されている曲があります。

しかし,その後はどこかで微妙な脱線を繰り返してはいますが,この思いは今もいろんな思考の底流に通奏低音の様に流れている様な気もしています。

しかしながら,そうは云っても,やはり40周年,そして今後は50周年,100周年へと私立大学の雄として飛翔を続けるべき本学です。

在学の教職員の皆さま,力を併せて,これまでの蓄積を力に,将来の扉を開けて行きましょう。